アスカモデルニュース / News
8.242019
【ブログ】8月25日パリ解放
ミリタリーファンには今更かもしれないが、パリ解放の緊迫した様子を日を追って覗いてみた。
8月15日、パリではストライキが始まる。
パリ市内のレジスタンス運動は共産党系をはじめとするいくつかの集団に分かれていた。戦後のことを考えた主導権争いもそこに見え隠れする。
パリでのレジスタンスによるストライキの報告にパリを目指していたドゴール将軍は焦りを隠せなかったことだろう。
8月17日
ドイツ軍守備隊の一部はパリ脱出を始めた。そして、市中に張り出されたポスターがパリ解放のための蜂起を呼びかける。
8月18日、一部で銃撃戦。
いくつかの公共施設には3色旗が、そして、禁止されていたラ・マルセイエーズが流れる。蜂起したレジスタンスはドイツ軍との銃撃戦を展開。しかしながらレジスタンスが用意できた武器、弾薬は少なく、補給もない中、それらが底をつく事態に。
パリ市民にもドイツ軍にも死者が出る中、8月20日、全国抵抗評議会指導部がパリ市庁舎を占拠。
第二DB師団のルクレール将軍は小規模な分遣隊を21日ヴェルサイユに派遣。連合軍の許可なき行動が物議をかもすが、ドゴールをはじめ、アイゼンハワーの説得に努力。ドゴールは早くパリ解放を実現する必要があった。
「パリ解放」の記述によればパリ市内でのドイツ軍への抵抗には著名人も関わっていたのがわかる。イヴ・モンタン、エディット・ピアフ・・・。
8月22日、フランス国民放送局が放送を開始。状況を逐次流し始める。
一方でヒトラーからはパリ死守を命じる連絡がドイツ軍守備隊の大パリ司令官フォン・コルティッツ将軍に届くが、将軍はその声を黙殺。しかし、レジスタンスなどの非正規軍との交渉は考えておらず、あくまで、正規軍への降伏を目指し、連合軍の到着を待っていた。こちらも時間との闘いであった。ヒトラーによる空爆などが起きる前に・・。早く連合軍にパリに到着してほしかったのであろうか。
8月22日夜、連合軍総司令官であったアイゼンハワーが説得に応じ、パリ進行を決断。
ブラッドリー将軍からルクレールにパリ進軍の命令が下った。
パリへ移動!
8月24日
パリへ40キロのランブイエに到着。その日の午後6時、ドゴールがランブイエでルクレールと合流。
8月24日
遂にパリ市庁舎前に第二DB師団のシャーマンが到着。
パリ市内の教会の金の音が次々と鳴らされ、市内に響き渡った。
8月25日、開放の日。
連合軍部隊はドイツ軍行政本部への進撃を開始。
到着するシャーマン戦車をはじめとする車両には白地にロレーヌ十字が付けられ、一部の兵士たちはケピ帽、黒いベレー帽、革製の戦車兵用のヘルメットなど、フランス兵の装備をまとっている。そう、シャーマン戦車などの車両に乗っていたのはアメリカ兵ではなく、フランス兵たちだった。それを理解したとき、老若男女のパリ市民が家々から飛び出してこれらを囲んだ。
戦車によじ登るもの、抱き合うもの、進撃は歓喜の群衆によってしばしの足止めを余儀なくされた。
最後の戦闘に群衆をかき分けて進んだ部隊はコンコルド広場へと進撃。ドイツ軍戦車との戦闘ののち、これを制圧。ドイツ軍のコルティッツ将軍との間で降伏文書の調印が済むと、いよいよドゴールが到着。市庁舎大ホールでドゴールの演説が行われ、パリは長いドイツ支配の中から解放されたのである。 パリ解放の様子は多くの写真や資料でミリタリーファンにはおなじみであろう。感動の物語も数多いと思う。ラ・マルセイエーズを聞きながら白地にロレーヌ十字のシャーマンなど、いかがですか。